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独立革命指導者 マキシモ・ゴメス

【Maximo Gomez:−年】

ドミニカ共和国生まれのマキシモ・ゴメスは、祖国ドミニカで1860年から4年スペインからの独立戦争に参戦したが、政府からの圧政によってキューバへ亡命した。その後、キューバで農業を営んでいた最中に第一次独立戦争が勃発するのである。 1868年10月、マキシモはキューバにいるドミニカ人を集めて小隊を組織して独立戦争に参加する。彼はドミニカでの闘いの経験を生かした巧みな戦略で次々にスペイン軍を倒し、軍曹から将軍へと一気に登り詰めていくのである 1870年6月には、軍の責任者であるマルモール司令官が戦死する。これに代わってマシモ・ゴメスがオリエンテ地区の司令官に就任された。 マキシモ・ゴメスの功績は、第一次独立戦争からともに戦ったアントニオ・マセオに匹敵する優れた戦士であり、またマキシモ・ゴメスは、アントニオ・マセオを、「戦いに戦いを継ぐ、戦士の中の戦士」と賞賛していた。 マキシモ・ゴメスは司令官として重要な役割を果たしながら闘争を全国に波及させ、ラス・ビリャスの西部侵攻作戦を開始する。しかし、1872年6月カルロス・セスペデスから府要人の防衛に回るよう指示されたことに反発したために、オリエンテ地区司令官から罷免させられる。だが多大なる功績を重ねるマキシモ・ゴメスを、1年年後には東部軍司令官に復帰させるのだ。  独立へ向けて、スペイン軍に対する戦闘を続ける中、1873年カルロス・セスペデスの強権的な態度に保守派との確執が起こり、反セスペデス派によって解任される。1874年、には再び西部侵攻作戦を開始して、スペインが西部防衛のため建設した防衛線を突破して進軍を続ける中、議会からの圧力や内部反乱も相次ぎ、西部侵略は夢の藻屑となって消える。 1878年には、大統領解任によって議会が解散されるなど新たに組織された中部地区委員会が独立勢力に対して停戦交渉に当たる。最後まで戦いを続けるマキシモ・ゴメスにスペイン政府は、「米国人に対しラテン系が団結して闘うべきだ」と停戦を呼びかけた。しかし、マキシモ・ゴメスは、停戦も含めて民主的な議論で意志統一することを求め、「我々にとって人種はただ一つ,平等と尊厳を望む人種だけだ」と言い放った。 しかし、スペインとの間に調印されたサンホン条約で、10年戦争は終結を迎える。 それによって、マキシモ・ゴメスはキューバを離れて中央アメリカにあるホンジュラスに亡命する。 1881年12月、ジャマイカのキングストンをアントニオ・マセオとの会談を行う。この時、アントニオ・マセオは、「時が至れば、キューバ人は再び決起するだろう。その時キューバ人全員を団結させられるのはゴメスを置いて他にはいない」と発言。 1884年10月、マキシモ・ゴメスとアントニオ・マセオはニューヨークの9番街マダム・グリフォン・ホテルでホセ・マルティと初めての会談を行う。 マキシモ・ゴメスは、その後も戦闘に向けた資金調達を行うが苦戦する。度重なる内輪もめと資金調達の失敗に失望を抱き、1886年12月、反乱計画の終焉を宣言する。 1892年1月、キーウェストの27クラブの代表たちにより、武装蜂起を基本とする暫定原則が承認されてキューバ革命党が創立する。革命党は、マキシモ・ゴメスに司令官を依頼することを決定し、ホセ・マルティはドミニカまでマキシモ・ゴメスの快諾を受けに行く。 マキシモ・ゴメスはこの要請を受け、第二次独立戦争の最高司令官に任命される。 1895年4月、ホセ・マルティとともにマキシモ・ゴメスら6人を乗せたボートはカホバボ近くのプライータ海岸に上陸する。その後、グアンタナモ北方の山中で数百人の部隊と合流し、再び本格的な戦闘に臨むのである。この時、マキシモ・ゴメスは、『革命に敵対する所有者の資産だけが破壊されるだろう』とするチラシを国内に一斉配布する。 5月には、ホセ・マルティとマキシモ・ゴメス、そしてアントニオ・マセオによってメホラナ精糖工場で三者会談を行い、ホセ・マルティが文民最高指導者、マキシモ・ゴメスが総司令官、アントニオ・マセオがオリエンテ州司令官となることを決定し、また秋には制憲議会を召集することを約束する。 マキシモ・ゴメスはドス・リオスに陣を張る中、5月19日、スペイン軍との遭遇戦によってホセ・マルティが戦死する。 その後、マキシモ・ゴメスはカマグエイに進出した後奇襲攻撃を次々に展開し、政府軍に大きな打撃を与えていくのである。 1896年1月、ラス・ビリャス州サンフアンでアントニオ・マセオ部隊と合流し、今後の戦略について検討し、マキシモ・ゴメスがハバナ戦線を維持する一方、アントニオ・マセオがこの間にピナル・デル・リオまで進軍することで合意する。 その後、マキシモ・ゴメスは部隊を引き連れ、ハバナ包囲を狙うランサデーラ作戦を開始し、『我々革命軍は平和的な住民と農業を尊重する』と記されたチラシを配布する。 しかし、同年10月には、マキシモ・ゴメスは内部の反乱や政府軍との苦戦を虐げられ、一時革命軍総司令官の地位を外されてしまう。 1896年12月9日、プンタ・ブラーバ潜伏中のアントニオ・マセオが夜襲にあい死亡。訃報は、息子のフランシスコ・ゴメスの死去とともに届けられた。 アントニオ・マセオの死によって西部戦線は崩壊する中、国内による反乱が鎮圧してくるも、マキシモ・ゴメス率いるラス・ビリャスの部隊は必死でスペイン軍に対する攻撃を続けた。その頃、キューバ国内での米国との摩擦によってスペイン政府は窮地に立たされる。1898年3月には、スペイン政府は高まる国際世論を前に戦略村を解放し、マキシモ・ゴメスに米国の侵略を阻止するため共同しようと呼びかけるが、マキシモ・ゴメスはそれを拒否。  1898年4月、キューバでの戦いは米国とスペインの戦いである米西戦争に移行するのである。 1899年11月ニューヨーク・タイムズに紹介されたマキシモ・ゴメスの発言。「公共の要職につく人間は、国のために働いていると信じているが、それはまったくの誤りであり、干渉主義者のために働いているに過ぎない。尊敬すべきキューバ人は、まずもって共和国の理想を貫かなければならない」


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