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青銅のタイタン アントニオ・マセオ

【Antonio Maceo:1848−1896年】

この時期、革命を望み、またサンティアゴ・デ・クーバを中心に果敢に闘ったのは黒人たちある。その中で偉大なる功績を起こしたのがアントニオ・マセオである。彼は褐色肌から『青銅の巨人』と言われ多くの人から尊敬させてきた。また彼は並みならぬ愛国心の持ち主で、独立戦争では24回の負傷を追いながらも再起を果たして戦い続けた男である。 アントニオ・マセオは、サンティアゴ・デ・クーバで貿易商を営む両親の下で裕福な家庭の息子として生まれ育った。父マルコス・マセオはベネズエラでスペイン軍の兵士として闘った後、キューバに亡命してきたのである.その後、サンティアゴ・デ・クーバの近郊で農場を成功させて財を稼いた。母マリアナ・グラハレスはドミニカの出身で、病死した前夫との間に4人の子供とマルコスとの間にまた4人の子供をもうけたのである。アントニオは、マルコスとの最初の子供である。 そんな大家族の一家は、全員が革命家となる運命を辿る. 1867年4月、カルロス・セスペデスがオリエンテ地方で秘密結社『ブエナ・フェ』を結成した時を同じにして、サンティアゴ・デ・クーバでも革命組織によって秘密結社『グラン・オリエンテ・クバーノ』が結成された。その中には、マセオ一家がいた。  1868年10月10日、独立戦争が始まると、真っ先に武装闘争に参加したのが父マルコスであった.マルコス・マセオは、サンティアゴ・デ・クーバの革命組織で指揮を取るマルモール司令官の下、妻マリアーナと4人の息子を引き連れて参戦するのである。  独立戦争開始から一ヶ月経った11月には、アントニオ・マセオは戦功を上げ、軍曹に任命され、また翌年には少佐に昇格するのである。 アントニオ・マセオは戦術に長けていた。彼の巧みな戦術によって、スペイン軍を次々に打倒した功績と優れたリーダーシップをカルロス・セスペデス買われて、1970年には司令官に昇格するのである。 10年に渡る戦いで多くの兄妹が戦死する。また父カルロス・マセオはサン・アグスティンの闘いで、アントニオとともに戦っていた時に銃弾を受けて亡くなってしまう 1878年、独立勢力側はスペインとの間に妥協的なサンホン条約を結んだことで、10年戦争は終結された。この条約でスペインは、キューバのスペイン議会への代表権と黒人奴隷の解放を約束した。しかし、この条約の妥協的性格に反対したアントニオ・マセオはバラグアの地で徹底抗戦を主張した。 「キューバを私物化しようとする者は、もし戦いで死滅しないのならば、血の海となった大地の埃を広い集めることになろう』 その後、アントニオ・マセオは、「いつの日かふたたびキューバのために闘うだろう」と宣言して、スペイン船でジャマイカに向かった。ジャマイカに渡った後はニューヨークを訪れて、再び紛争に向けた資金集めを続けようするが失敗する。 1878年、スペイン政府は、キューバに国会への代表権を与えるとともに、全土を6州に分けてそれぞれ選挙によって議会を設置すると表明するが、実施されることはなかった。  1879年、アントニオ・マセオは『キングストン宣言』と発し、サンホン合意を批判する。「約束された改革は実行されておらず、キューバ人の政府を作る方向ではなく、半島人の支配を強化する方向で物事が動いている。大量のスペイン人が流れ込みポストを独占している。彼らは自らのポケットと本国人の機嫌だけを気にしている」 1880年2月、ドミニカを訪れ資金の調達に成功すると、同年6月、34人の同志とともに米国船プエルト・プラタ号でドミニカを出発してキューバを目指すのである。しかし、無念にも、スペイン軍艦によって阻止されてしまい、上陸を果たせず途中ハイチで資金を当局により没収されてしまう。  1884年、フロリダ潜伏中に独立戦争の再現を狙った『オリエンテの同志と戦士へ』を宣言し、キューバ進攻を計画する。しかし、資金調達の失敗などが重なりこれを断念。  1890年には、母親マリアナ・グラハレスが85歳で死去したことで、財産処分のためにキューバに一時帰国する。 2月5日、ハバナ到着。サラマンカ総督との会見を申し入れるが拒否される。宿舎となったハバナのホテル・イングラテルラには、闘争再開を願う人々が次々と訪れ、アントニオ・マセオに決起を申し入れる。 ある時、青年ホセ・J・エルナンデスが、偉大な米国の星座の中のもう一つの星になることの是非についてアントニオ・マセオに質問した。その時の彼の答えは、「そんなことはありえないと思うが、もしそんなことになるなら、私はスペインの側に立って闘う」と言ったのである。 その後もアントニオ・マセオはハバナやピナル・デル・リオを巡回した後、サンティアゴ・デ・クーバに到着し、国民から熱烈な歓迎を受ける。マダム・アデラ・ホテルを事務所としてオリエンテ各地でもハバナ蜂起にあわせた決起を計画し、サンティアゴ・デ・クーバを解放してマキシモ・ゴメスを迎え入れる計画が練られるが、キューバのカミロ・ガルシア・デ・ポラビエハ総督によってアントニオ・マセオに国外退去命令が下され、ニューヨークに向けて出航を余儀なくされる。 その後、アントニオ・マセオは独立運動から遠ざかりパナマに移住する.運河会社で労働者たちの住宅建設事業を行った後、1892年にはコスタリカ政府の許可を得てニコヤ県に農場を開拓するようになるのである。 その後、ホセ・マルティによって起こった第二次独立戦争によって、再びキューバで独立に向けた戦いの舞台が切って落とされる。  1893年6月、ホセ・マルティはコスタリカに向かいアントニオ・マセオに革命参加を促した。しかし、アントニオ・マセオはすぐに承諾することはなかった。ホセによる1週間に渡る話し合いの結果、アントニオ・マセオも指揮官として参戦を決意する。 1894年11月17日、コスタリカで演劇を鑑賞していたアントニオ・マセオは暗殺者に撃たれて肩を負傷する。しかし、命に別状はなかった。 1895年2月、アントニオ・マセオは、ホセに武器や資金援助の割り当ててもらえなかったことで、軍資金の不足を理由に戦闘をためらったことで、司令官の地位を外され副官の地位に降格する。しかし、翌月3月、弟のホセ・マセオとともに30人の部隊を引きつれコスタリカを出発する。だが戦闘を恐れた船長にバハマ諸島で下船させられてしまう。アントニオ・マセオは米副領事の援助を受けて、「名誉号」と名づけられた船を入手し、キューバのバラコア北方に上陸を果たすのである。 キューバの上陸後、アントニオ・マセオは「我々のモットーは勝利か死かだ」と、キューバ人に武器をもって戦うよう呼びかけた。それによって6千人が参加するのである。 1895年5月ホセ・マルティとマキシモ・ゴメス、そしてアントニオ・マセオがサンティ・デ・クーバ北方のメホラナ精糖工場で三者会談する。独立達成後、軍事独裁国家に移行する危険を恐れたホセ・マルティは文民優位を強調し、軍民指導者の会議を開催し政府を組織するとともに、軍事指導者を選挙すべきと主張した。しかし、アントニオ・マセオは過去の経験から戦争勝利までは軍事評議会が全権を掌握すべきと主張する。そこで、マキシモ・ゴメスと三者は分担で協力し合い勝利に導くことで合意した。この時、アントニオ・マセオは政府内の一切の公職を拒否し、オリエンテ州司令官となることを決定する。 アントニオ・マセオは、オリエンテ州司令官に任命されるとグアンタナモに進出し軍事的支配を確立していく中、独立戦争支持者であるサルバドール・シスネロス・ベタンクールから手紙で、大統領就任への支持を要請される。その交換条件として政府高官のポストを提供すると示唆されるが、「私の気質を忘れないでほしい。私はこれまでポストを望んだことはなかったし、そのようなことに強く反対してきた」と返書にて述べる。  その後も長きに渡って戦闘を繰り返す中、1896年7月、オルギン近くのロマ・デ・ガトで激しい戦闘に破れ、弟のホセ・マセオが戦死する。 1896年12月8日、アントニオ・マセオは14人の仲間とともに小舟で防御線を突破して、ピナルからハバナ州に潜入したところ、待ち構えていた敵兵によって夜襲にあう。アントニオ・マセオは逃亡を図ろうとするが、敵弾に倒れて無念の死に至るのである。 その時、マキシモの息子であるフランシスコ・ゴメスは,アントニオ・マセオの遺体の側で自ら命を絶つのである。その後、二人はサンチァゴ・デ・ラス・ヴェガスのカカウアルに葬られる。 アントニオ・マセオの下、生涯を独立戦争にかけたフランシスコ・ゴメス、その父親であるマキシモ・ゴメスも、アントニオ・マセオとともに独立戦争を戦ってきた偉大なる人物である。


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